plays 1.5h...

先日こういうイベントがありました。

2月17日 (土) 午後7時30分開場、8時開演
山田光 (サックス)、大藏雅彦 (クラリネット)、山㟁直人 (打楽器)、遠藤ふみ (ピアノ、メロディカ)、柳沢耕吉 (ギター)
2,000円 (要予約)
予約:info@ftarri.com (氏名、人数、電話番号をお知らせください)
主催:山田光

Ftarri 水道橋店

 

お客さんもたくさん来てくれて、演奏も良かった気がします。反応も良かったみたいです。

 

私がリーダーということになったので、また半年後くらいに同じコンセプトでやります。

(山田・大藏・山㟁・遠藤カルテット+ゲストで90分演奏する、山田・大藏は管楽器を持ってくる、遠藤さんはメロディカも持ってくるがコンセプトか

 

 

フリーインプロの現場でなんとなく共有されている、前半30分強・15分休憩・後半30分強演奏、というフォームをやめて90分やってみようと思ったきっかけについては忘れてしまったが、やってみるととても面白い。休憩があると反省モードになって前半後半で作戦を考えてしまったり変に頭を使って手札の切りあいみたいになる(紙芝居型即興と確か野々村さんが書いていた)が、それが無いだけで長時間演奏しても疲れが少ないという話を終演後した。(演奏中の心の動き、サイコドラマ性も即興演奏が内包している要素の一つだと思うけど取り沙汰されることは少ない)

 

これまで、即興演奏におけるある種のスタイリッシュさみたいなものを自分で規定してしまっていて、例えば自分は楽器やマウスピースや各種サックスプリペアード道具を付け替えながら演奏するが、演奏中に一度出したネタ(ネタではないけど)は繰り返さない、とか、相手に反応し過ぎないという意味で相手の出してる音に合わせるためにセッティングを変えることはしない(自分の演奏のフレームと相手のフレームは別でそれが自然と交差していくのが良い演奏、みたいな)、というルールを勝手に作ってしまっていたことに気づく。

 

90分あると、持ってる手札を順番に切ってくだけではもたないので、ミスってもやり直すし、演奏中に姿勢も変えまくるし、さっきやったことでも今の場面にそぐうと思えば気にせずにセッティングを戻す、こともできる。知覚できる範疇を超えているので時間配分も考えない。演奏におけるスタイリッシュさは大事だと思っていたが意外にもそのスタイリッシュさはその場の音響をどう作るかとトレードオフ関係に(自分の中で)なっていた。

 

今回の演奏でいうと、山㟁さんがチベタンボウルの擦りで高周波持続音を出している場面でサックスのハーモニクスをぶつけてみたいというアイデアが生まれた。そしてハーモニクスコントロール用のセッティングではなかったのでマウスピースを付け替えてサックスからも高音を出した(一音目からばっちり当たった)。おそらく今までの30分スタイルの即興だと思いついても実行できなかった気がします(セッティングをそのために変える時間は無防備というか演奏を放棄してることになっちゃうので)。

スタイリッシュさ、言い換えるとその30分を作品として完結するために演奏する、ということだが、自分の技量?指向?とは合ってないのかもしれない。そして良い音響を目指すためにスタイリッシュさを捨てるのはエディット前提の音源にするためなのか?(自問) 優れた即興演奏家はスタイリッシュさと良い音響を当たり前に両立させていると思うが。

次回は自分でマイク立てて録音もしたいと思います。今回もみなさん良い場面たくさんあった。

 

終演後に大藏さん山㟁さんと話したが、管楽器のモジュレーション(山㟁さんはスネアを漏斗で吹く演奏もするが皮が周囲の音を拾ってピッチのコントロールは共演者に委ねられる場面もあるそう)は面白い。ハーモニクスで複数の音を出していてもそこから共演者の出しているピッチに引っ張られて収斂していく感覚があり、あれこそ作曲ではできない(やっても仕方がない)気がする。モジュレーション、物理現象でもあり、知覚と筋肉の反応でもあるという仮説が出ました。よく教則本などでオーバートーンの練習の際、出す音をまず脳でイメージし、そのあと音を出す操作に入りましょう、みたいなことが書いてあって声を出すのと同じく脳のイメージによって喉や口の開き具合が変わるということなんだろうけど複数楽器でのモジュレーションにもその作用は関係していそう。おわり。